STORY
川崎の喧騒と、弦の震え
私のルーツは、神奈川県川崎市にあります。工業地帯の力強さと、多様な人々が混ざり合う独特の活気。そこで育った私の幼い頃の夢は、バイオリニストになることでした。放課後は遊びたい盛りの心を抑え、ひたすら弦を弾く日々。木製の楽器から伝わる微細な振動と、自分の感情が共鳴する感覚に、幼いながらも「表現」の悦びを見出していたのだと思います。
結局、プロの奏者という道には進みませんでしたが、あの頃培った「美しさへの執着」は、今も私の血肉となっています。得意教科だった国語の時間、行間に潜む感情を読み解くのが好きだったことも、今の仕事に通じているのかもしれません。言葉にできない思いを、旋律ではなく、一皿の料理に託す。それが私の選んだ新しい演奏の形でした。
毒と美、そしてアニメーション
私の感性を形作っているのは、バイオリンだけではありません。書棚には太宰治や萩原朔太郎の作品が並んでいます。太宰の自虐的なまでの繊細さ、そして朔太郎の詩に漂う、病的なまでに美しい情緒。彼らの言葉は、時として鋭い「毒」を孕みます。しかし、その毒があるからこそ、救いとしての光が際立つのです。
また、意外に思われるかもしれませんが、日本のアニメーションも私の大切なインスピレーションの源です。緻密な背景描写、光の捉え方、そしてキャラクターたちが織りなす極限の人間ドラマ。アニメが描く世界観は、レストランの内装や盛り付けの色彩感覚に、確かな影響を与えています。クラシック音楽の規律正しさと、アニメが持つ奔放な想像力。その相反する要素が、私の店という空間で密かに混ざり合っています。
「毒を食らわば皿まで」の矜持
私の座右の銘は「毒を食らわば皿まで」。少し不穏な響きを持つ言葉ですが、私にとっては究極のプロ意識の象徴です。
南青山という、流行と伝統が交差する厳しい場所で店を持つ。それは、一度足を踏み入れたら最後、退路を断ってやり抜く覚悟が必要です。お客様に最高の瞬間を提供するためには、自分自身の持てるすべて――知識、経験、そして時には私的な時間すらも――を投げ打つ。中途半端な妥協をするくらいなら、いっそ徹底的に破滅するまでやり遂げる。そんな「覚悟」を持って、毎晩キッチンに立っています。この潔さが、料理のキレを生むのだと信じています。
人との出会い、それが人生のメインディッシュ
この仕事をしていて最も幸せなのは、やはり「人との出会い」です。 カウンター越しに交わされる、何気ない会話。文学や音楽、時にはお勧めの秋アニメの話で盛り上がる夜。お客様が一口料理を運んだ瞬間、その表情がふわりと緩むのを見るたびに、私はこの場所を選んで良かったと心の底から思います。
川崎の少女が夢見た「バイオリンの調べ」は、形を変えて、今この店の賑わいの中に響いています。お客様という共演者と共に、私はこれからも最高の「一曲」を奏で続けていくつもりです。南青山の夜は更けていきますが、私の情熱はまだ、一皿のソースも乾かないうちに次の一手を求めて震えています。
SOLEYARD OWNER 水津千紘